戦後から見えなくなったもの
2017-04-29


神田神保町に出かけた。地下鉄駅下車2分の靖国通りに面した古書街案内所の手前に、韓国関連の本を扱う専門書店がある。店はカフェを兼ねており、連日様々なイベントを開く。それらは、朝鮮王朝時代の書堂で行われた漢書一冊読了後の儀式に由来する「チェッコリ」という店名にふさわしい。
 昨日聴いた講演も本の著者と翻訳者によるものだったが、出版社や韓国文学翻訳院の協力などで、いつもは1500円ほどの参加費が無料だった。取り上げられたのは、韓国聖公会大学の研究者の論考を中心にまとめられた「〈戦後〉の誕生」(新泉社)。配布された資料にも繰り返し出てくるが、「本書の問題意識はひとことで言うなら、日本の「戦後」は「朝鮮」を消去することによって成り立っている、つまり日本の「戦後」は「朝鮮」〔をはじめとする旧植民地〕の消去の上にあるというところにある」(序章から)。
 引き揚げ者を含む戦後の知識階級のテクストなどから上記のような問題意識を探り出そうとしているわけだが、人文系の学術書として公刊されているせいか、わずかな抜き書き程度の資料でも私には少し敷居が高かった。それでも、本の紹介文にある「捨象の体系としての「戦後思想」そのもの」には私にも昔から思い当たる節がある。たとえば、朝鮮半島へ多くの関心を持っていたはずの司馬遼太郎が、「坂の上の雲」で全くと言っていいほど、かの地を書かなかったのはなぜなのか。また、幼い頃に繰り返し聞かされた記憶がある“単一民族”という言葉の背景にある社会指向なども一つの例だろう。
 読んでいない本について語ることはできないが、いずれにしても、日本人が「戦後」と呼ぶ時代において退けた問題意識が、今の戦前回帰傾向とそれを支える思考停止につながっている可能性があることだけは確かな気がする。
[読書]

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